2010年11月28日日曜日
スプレーギク(4)
はじめ栽培されていた中国産の園芸種は,たいてい花びらを内側に巻き込む種類であったが,十九世紀の終わり頃にかけて,日本産の柔らかい,花びらが外側に広がるタイプの方が好まれるようになった.その幾つかは一八六一年日本での四度目の旅行でロバート・フォーチュンが持ち帰ったものであるが,最初はほとんど注目を浴びなかった.だが,一八九八年までにはヒッバードが言うような「花がとても大きいので帽子に入らないほど」のキクも良く好まれる様になっていた.キクは大部分が,温室の花であった.ポンポン咲きの園芸種が一時的に人気がなくなった後,一八八〇から一八九〇年の間にフランスの栽培家 M・デロー氏が関心をキクに向けるまでは,新しい戸外向けの耐寒性のあるキクを作り出すことはほとんど行なわれなかった.
その後,寒さに強くて花をつけやすい朝鮮産のものが新たに紹介され,花壇の縁どり用として再び関心が寄せられるようになった.朝鮮産のものというのはイギリスに早く導入された戸外用の園芸種とコレアヌム種(C. coreanum)の交配種で,アメリカの A・カミングス氏が育てたものである(An important step toward better mums was made when Alex Cumming, Jr., crossed the species Chrysanthemum coreanum with the garden chrysanthemum C.hortorum to produce the Korean hybrids. These crosses were made in 1928. The introduction of germ plasm of this species has resulted in better garden chrysanthemums and points the way to future improvement through interspecific crosses.).
もう一つの重要なキクはルベルム種(C. rebellum)から生まれた.これは一九二三年,ランディットノー(イギリス)のハッピー・ヴァレイ・ガーデンとドイツのデルムシュタット近郊の種苗園で同時に作出された.これは中央ヨーロッパ原産のザワデスキ種(C. zawadskii (Zawadsky's chrysanthemum),標準和名 イワギク (岩菊) 日本各地及び東アジアからシベリア,ヨーロッパ東部にまで分布するキク属の多年草.山地の岩場などに生え,高さは10~60センチほど,石灰岩地の残存植物として点々と隔離分布する.下部の葉は2回羽状に深裂または全裂し,長い柄があり,葉の形状は地方によって変異が大きい.7月から10月ごろ,白色の頭花をつける.)の突然変異であると考えられている.今日では,ウールマンの「リリベット」,サットンの「チャーム」など魅力的な花壇用の小形のキクがたくさん生産されている.
キクの親,つまりシネンシス種とインディタム種は,ともに中国の自生種である.インディタム種の方はリンネが一七五三年に『植物の種』の中で乾燥標本に名づけたのである.インド産であるかのような名前は誤解を招く.植物を企業化するのに巧みな植物愛好家である中国人は,生食用の花びらを採るために,ある種の園芸種を栽培していた.クリサンテマムは「金色の花」という意味であり,新しくココというような名前で呼んだりクリサンス(Chrysanths)とか,もっと悪いマムズ(mumus)とか呼ぶ人には,一種の罰を与えるべきだろう.
(終わり)
おまけは1960年,中国で発行された菊花の切手.全18種が発行されたが,持っているのは内14種.いかにも中国らしい名前と配色が楽しい.
图序 票图名称 原作者 面值(元)
18-1 黄十八 洪怡 0.04
18-2 绿牡丹 屈贞 0.04
18-3 二乔 刘硕仁 0.08
18-4 大如意 屈贞 0.08
18-5 如意金钩 胡絜青 0.08
18-6 金牡丹 汪慎生 0.08
18-7 帅旗 屈贞 0.08
18-9 芙蓉托桂 徐聪佑 0.10
18-10 玉盘托珠 洪怡 0.10
18-13 紫玉香珠 徐聪佑 0.22
18-14 冰盘托桂 洪怡 0.22
18-15 墨荷 胡絜青 0.30
18-16 班中玉笋 屈贞 0.30
18-17 笑靥 屈贞 0.35
2010年11月23日火曜日
スプレーギク(3)
(続き)
一七八九年にマルセーユのブランカールという商人が三種の園芸種を輸入した.それは白,スミレ色,紫色のキクだけが生き残った.そのうちの一本が一七九三年頃にキュー植物園に入った.その時はうまく根付き,立派に育った.このキクがイギリスで最初に展示されたのは一七九六年コルヴィール氏のチェルシー種苗園の展示会であった(左図:Curits’ Botanical Magazine, 1796,Chrythanthmum indica,銅版手彩色).
最初は,種子も株もすべて輸入されていた.ロンドン園芸協会の要望に従って,東インド会社の広東代表ジョン・リーヴィス氏が送ってきたものもあった.一八二〇年から一八三〇年にかけて,およそ七十種類の園芸種が導入されたが,その中には「真紅のラナンキユラスの花に似たキク」があり,中国人はこの花のことを酔っ払った婦人と呼ぶが,それはおそらく「それがバラ色をしているためであろう」とザビーネは一八二六年のロンドン園芸協会『会報』に書いている.
一八三二年にイギリスで初めて種子が採れた.そしてその後,キクの栽培はジャージーの重要な産業になった.ジャージー島では,一時期四千種類もの違ったキクの変種が栽培されていたと言われる.最初のキクの品評会は一八四三年にノリッジで催された.そしてストーク・ニューイングトン協会,後の英国菊花協会が一八四六年に創設された.
同じ年に,ロバート・フォーチュンがチユーサン・デージーと呼ぶキクをイギリスにもたらした.これが小形のポンポン咲きの親である.ポンポン咲きのキクはたいそう人気が出て,とくにフランスでは人気が高かった(この名前はフランスの兵士の帽子につけているポンポンから取ったと言われている).ビートン夫人は一八六五年に「人々に愛好されているこの小形の種類が導入されたことは,キクの栽培がイギリスで再び盛んになったことに少なからず貢献した」と書いている(右図:Lemaire, 1861, Chryanthemes nains piecoces, 多色石版).
その頃,キクの栽培は一時的に下火になっていたらしい.グレニーはその理由を「開花時期が遅いのと,色が明るいこと以外推薦できる点はない.匂いはないし,その上栽培を薦められるようなよい性質も持たず,言えるのは下の方から葉が無くなってとても醜くなることである.戸外では棒の支えが必要で,それがないと倒れてしまう」からであると言っている(とひどい言われようだが,キクは仄かだが良い香りがするし,挿し木や適切な摘芯をすればコンパクトになる.文句を言う前に日本の芸術的な仕立て方を学ぶべきであったろう) .
(続く)
2010年11月19日金曜日
スプレーギク(2)
続き
キクの栽培は四世紀の終わり頃中国から日本に伝えられ,七九七年*1にミカド個人の紋章となって*2,この紋章は以後皇族のみに使用が限られるようになった*3.この花をたたえる詩をミカド自らがつくり*1,また菊花勲章*4はミカドが与える最高のものであった.キクの栽培は皇居や貴族の家の庭でのみ許されていた.今日も用いられている日本の国旗は,一般にはそう思われているようであるが,日の出ではなく,まん中の花盤の周りに十六枚の花びらをつけたキクなのである〔旭日旗のことを指している〕*5.
こうした東洋での栽培事情を知れば,一六八八年には早くもオランダでマトリカリア・ヤポニカ(Matricaria japonica)という名前でわずかながらもキクの園芸種が栽培されていたのに,イギリスに到着したのがやっと十八世紀の終わりであったという史実を思い返すと屈辱的な気持ちになる.一七六四年にはチェルシー薬草園で小さな黄色の花びらを持ったキクが栽培されていた記録があるが,その後間もなく姿を消してしまった.
*1 桓武天皇 天平9年(737年) -延暦25年3月17日(806年4月9日)の時代.キクが園芸的に栽培され,「菊花観賞」が宮廷儀礼の重要な部分として行われるようになるのは,桓武天皇が平安遷都を成功させた延暦十三年(794)以後のこと.菅原道真編『類聚国史』(892年成立)卷七十五「歳時部」六の曲宴の項によると,平安京遷都から三年目の延暦十六年(797)十月十一日,宮中において開催された曲水宴の席上において,桓武天皇がキクを題材にした,次のような即興の和歌を朗詠した.
己乃己呂乃.志具礼乃阿米爾.菊乃波奈.知利曽之奴倍岐.阿多羅蘇乃香乎.
コノゴロノ シグレノアメニ キクノハナ チリゾシヌベキ アタラソノカヲ
また,同書卷七十四「歳時部」五の九月九日の項には,桓武天皇の子の平城天皇の大同二年(807)頃には,九月九日の重陽の節供に菊花宴を開くことが恒例になり始めていたことが記述され,8世紀末から9世紀初めには中国原産のキクが日本の宮廷社会に根を下ろしていったことが分かる.
*2 鎌倉時代の後鳥羽上皇(治承4年7月14日(1180年8月6日) - 延応元年2月22日(1239年3月28日)はことのほか菊を好み,自らの印として愛用した.その後,後深草天皇・亀山天皇・後宇多天皇が自らの印として継承し,慣例のうちに菊花紋,ことに十六八重表菊が天皇・皇室の「紋」として定着した.
*3 「十六八重表菊」が公式に皇室の紋とされたのは,1869年(明治2年)8月25日の太政官布告第802号による.親王家の菊花紋として十六葉の使用を禁止し,十四葉・十五葉以下あるいは裏菊などに替えることとした.また,1871年(明治4年)6月17日の太政官布告第285号で,皇族以外の菊花紋の使用が禁止され,同第286号で,皇族家紋の雛形として十四一重裏菊が定められた.その後,1926年(大正15年)に制定された皇室儀制令(大正15年皇室令第7号)第12条[4],第13条[5] によって正式に定められている(From Wikipedia).
*4 最高位である大勲位菊花章頸飾及び大勲位菊花大綬章
*5 1999年(平成11年)に国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)が公布され、日章旗が正式に国旗として定められた。
Pannemaeker “LA BELGIQUE HORTICOLE” Chrysantheme Du Japon “Stantead Surptise” 1800’s(伯)多色石版
2010年11月16日火曜日
スプレーギク(1)
『花の西洋史』草花篇 A. M. コーツ著,白幡ら訳 八坂書房(1989)は,日本から海外,特に欧州に渡った花の歴史やその後を知るには非常に有用な書物である.そこには「きく Chrysanthemum」の項目があり興味深いが,その中の中国や日本での菊の歴史についての記述にはいくつか誤解があるのではと思われる.そこで,原文を引用したうえ,注やコメントを紺色で追記する.
クレサンテマム・シネンシス・インディクム(C. sinensis ×indicum)がいわゆるキクである.この高貴な花はその自生地,東洋では二千年にも及ぶ栽培の歴史を持つが,イギリスにおける栽培の歴史は比較的短い.
中国ではおよそ紀元前五〇〇年頃に,孔子(紀元前551年9月28日‐紀元前479年4月11日)がキクについて語っていると言われる(調べきれず.屈原 (紀元前343年1月21日? - 紀元前278年5月5日?)の『離騒 第四段 成言後悔』には「朝飮木蘭之墜露兮,夕餐秋菊之落英 (朝には木蘭の墜露を飲み、夕べには秋菊の落英を餐らう)」とあるが).
五世紀には陶淵明(365-427)という人物がいて,キクの花の栽培家として有名であった(「秋菊有佳色」(飲酒二十首 其七),有名な「採菊東籬下」(飲酒二十首 其五)など,知られているだけで菊を愛する七つの詩を残しているが栽培家とは読み取れず).彼の死後,住んでいた町はチユーシアン(潯陽柴桑(今在江西九江西南)?),すなわちキクの町と改名されたというのを読んだことがある(「小柴桑 菊城」*との混同か). 続く
おまけ(1)
「陶淵明の菊」にちなむ俳句
草の戸や日暮れてくれし菊の酒 (芭蕉 「笈日記」)
夏菊や陶淵明が朝機嫌 (井上井月(幕末の長岡藩士)「漂泊酒句」)
菊の香や晋の高士は酒が好き(漱石)
菊咲けり陶淵明の菊咲けり (山口青邨 「雪国」)
熊本大学学術リポジトリに発表された朴美子さんの『中国文学に見られる「菊」の様相 : 陶淵明を中心として』(http://hdl.handle.net/2298/2749)が興味深い
おまけ(2) 左図
Pannemaeker “LA BELGIQUE HORTICOLE - Chrysanthemum sinensis var. Japanese” 1863 (伯) 多色石版
*正式な名前は「小欖」という町 原名欖鄉,古有美稱“小柴桑”、“欖溪”等,今又有美名“菊城” この町が“菊城”とも言われるゆえんは以下の中国語版Wikipediaに詳しい.
http://zh.wikipedia.org/zh/%E5%B0%8F%E6%A6%84%E9%95%87
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%A6%84%E8%8F%8A%E8%8A%B1%E4%BC%9A
2010年11月13日土曜日
サガギク(嵯峨菊)
京都の大沢池にある小さな菊ガ島には,紀友則の歌の石碑が立つが,詞書からすると実際に大沢池で詠んだ歌ではなく,時代からしてサガギクを詠んだ歌ではない.
花(春)の下の葉を,上段は緑(夏),中段は紅葉(秋),下段は枯れた状態(冬)にして,上から春夏秋冬に見立てての情景を楽しんだという.
ご近所から「嵯峨菊」として苗を頂いたが,あまり弁が細くないので,典型的な「サガギク」ではなさそう.しかし庭に繁茂しているスプレーギクとは違ったキャラクターが際立っている.
2010年11月10日水曜日
イソギク
日本特産のキク.千葉県から静岡県及び伊豆諸島の海岸に自生するのでイソギク(磯菊)の名を持ち,種小名も pacificum=太平洋の であるが,性質は強健で各地で栽培されている.
地下茎を出して広がり,株立ちになる.葉は厚く,表は緑色だが,裏側は白い毛が密生し,白い縁取りのようにも見える.花期は10〜11月頃で,多数の頭花を散房状につけて,香りがよくて晩秋の日を浴びて輝き,多くの昆虫が訪れる.一般には管状花のみといわれるが,この株の花の外側には短く細い花弁をもつ舌状花があるようだ.
野菜及び花きの大害虫であるマメハモグリバエ Liriomyza trifolii (Burgess) は北アメリカ原産で,1970年代以降世界各地に広く分布するようになった.この分布拡大の中心はアメリカのフロリダらしく,そこから出荷された花きや野菜の苗に本種が寄生していたらしい.しかもこの系統は殺虫剤抵抗性を獲得しており,アメリカばかりでなくアフリカやヨーロッパ諸国でも大問題となっている.我が国では1990年6月頃から静岡県西部地域を中心にハモグリバエが大発生し,キク,ガーベラ,セルリー,トマトなどに深刻な被害を与えている.
オランダのJ. DE JONG & M. VAN DE VRIEは,「イソギクは観賞用のキクよりもこの害虫に対する抵抗性が際立って高い(生みつけられた卵から幼虫への成長を阻害する)ので,交配やその活性成分を同定することによって,マメハモグリバエの被害を防げるのでは」と言っている.(http://www.potatonews.com/leafminers/database/a012.pdf).一方米国では地方によっては,キク白さび病菌の宿主になるため栽培が禁止されている.
庭に来てから10年ほど,地下茎で大きく広がるので若い芽が地表から出ると抜いてコンパクトな株にしている.そのせいかだんだん勢いがなくなってきた.しかし秋の日に輝く花は,Golden button といわれるにふさわしい.
2010年11月7日日曜日
番外編 ハナグモ
ハナグモはカニグモ科に属する網を張らないクモで,草間や花の裏などを徘徊・待ち伏せて,昆虫類などを捕食する.体色も花や葉の色に紛れる様にか,明るい中間色.幼体では全身緑色で,成体の雄では頭胸部および足は赤褐色で腹部の中央付近が緑色になり,雌では頭胸部および足は緑色で腹部は白っぽい.何れも腹背に褐色の斑紋が見られる.動作はゆっくりとしていて,ほとんど動かないので,昆虫に認識されないのであろう.
カニグモ科のクモの外見上の特徴は足の配置で,4対の足のうち,前3対が前を向き,後ろ1対のみが後ろを向く.特に前2対が長く発達して,その2対は左右に大きく張り出し,それを抱え込むように曲げるので,カニを思わせる.
写真のハナグモは体色から生体の雌.この大きさではチョウは獲物になりそうもない.アブやアリマキを待っているのだろうか.生きた農薬としてアリマキをせっせと食べて欲しい.
おまけは米国カリフォルニア州に在住の Kate-san のパートナー,Peter-san が撮影した米国のクモの画像.
Peter-san は主に人物や自然を撮影し,個展やグループ展を開き,音楽祭などの催しに呼ばれるプロの写真家.黒色の背景にクモの巣の糸が銀色に輝く描写はさすが.クモの名は分からないが,この雌は交尾の後で,雄を食べてしまったとのこと.
2010年11月5日金曜日
ホオズキ 実
5月に花をUPしたホオズキの実が赤くなった.中には赤い丸い実があるはず.古代ではこの赤い丸い実はおどろおどろしいイメージが先行したようだ.
『古事記』 天照大神と須佐之男命「五穀の起源」では,ヤマタノオロチの目の描写に「答白、彼目如二赤加賀智(あかかがち)一而、身一有二找頭找尾。亦其身生二蘿及檜椙、其長度二谿找谷峽找尾一而、見二其腹一隅、悉常血爛也。【此謂二赤加賀智一隅、今酸漿隅也。】 」とあり,
しかし平安時代になると,上代と違ってこの実はポジティブに受け取られ,ふくよかな実の丸さが美しい女性の例えに用いられるようになったり,
『源氏物語』「野分」 (玉鬘の美しさの表現に)「酸漿などいふめるやうにふくらかにて、髪のかかれる隙々うつくしうおぼゆ。」
Schlechtendal, D. F. L von et al. "Flora von Deutschland, Oesterreich und der Schweiz.... ( W Mueller) 独 1889 多色石版
2010年11月1日月曜日
番外編 熊毛帽 Bearskin Hat
現在でもこの「熊毛帽」は野生のクマの毛皮から作成されており,一頭から一個しか作ることが出来ない.特に士官の帽子には,毛の密度からカナダの灰色熊のメスの毛皮が最適で,これを黒く染めて用いている.そのため,母親グマが皮をとるために殺され,子グマが飢え死にした事例もあるという.ちなみに,英国歩兵近衛兵の帽子の高さは45cm,重さは280g,英国軍は年間50~100個を現在のレートで85,000円で購入する.使用期間は適切に手入れをすれば十年ほどだが,100年以上前の帽子もあるとのこと.