「ペリー提督日本遠征記」第一巻
“Narrative of the expedition of an American squadron to the China seas and Japan” vol. 1 (1856)
ペリーは帰国後,知人のホークス師に公文書,航海日記,個人的な日誌,乗組員のノートなどを提供して,政府から求められていた報告書の作成を依頼し,1856年には完成した.これが,“Narrative of the expedition of an American squadron to the China seas and Japan”『ペリー日本遠征記』である.
この書籍の書誌には不明のところが多いが,いくつかの版があり,その発行部数も相当多い.公式な報告書(議会版)は 16,000 セット余印刷され,そのうち 1,000 セットはペリーに贈られた.したがって,この報告書に添付された図譜は,現在でも比較的安価で購入できる.唯一つの例外が,この「下田 公衆浴場の図」で,非常に希少とされている.最初に議会版が少数印刷された際に,この図が「混浴の情景は風紀を乱す」という理由で,それ以降削除され,約十分の一のセットにしか収載されていないといわれている(
http://kyotoobserver.wordpress.com/2008/11/10/shimoda-public-bath-1854/).上に掲げた図譜は 2011 年 6 月に e-Bay のオークションで落札したもの.
Gregory James Smits,
“East Asian History Textbooks” Pennsylvania State University
"The "Banned" Lithograph. A very limited number of editions were published with a "nude bathing" (Public Bath at Simoda) lithograph. This lithograph was quickly deleted from Government published volumes due to public indignation at the nude figures in the scene. The scene was the inside of a public bath house in Japan where males, females and children have bathed together in the nude for centuries without concern. The lithograph is sometimes found unbound/extracted. When found in a bound volume 1, the print is generally found facing page 408. Either bound or unbound, this lithograph is scarce. "
「私達は昭和十年に初めて、本紀の全訳を弘文苑から上下二巻として刊行した。彩色版、凸版も、原書のまゝ全部挿入し、最も珍奇とされてゐる「下田の公衆浴場の図」(原書でも除いてある版が多い)も挿入した。」(ペルリ提督『日本遠征記』土屋喬雄・玉城肇訳 岩波文庫 (1948) )
「また,挿入画の中で最も珍奇とされている「下田の公衆浴場の図」(原書でも除いてある版が多い)も本書に収載することができた。」(『ペリー日本遠征記図譜』 伊豆下田郷土資料館編 京都書院 1992)
「第1巻には、マデイラ諸島、セントヘレナ島、セイロン、香港、広東、琉球(那覇・中城など)、小笠原、江戸(浦賀・横浜など)、下田、函館など様子を描いた石版画(リトグラフ)が90枚、木版画が78枚(下記リストにないものを含めると100枚以上)収められています。石版画の中には、原文書でも除かれていることが多い『下田の公衆浴場』も収録されています。」(完全復刻版『ペリー日本遠征記』株式会社 Nansei)
とこの図譜は流通している数が少ない.また,いくつかOn-lineで読める遠征記でもこの図のない版が多い.
書誌ノート議会版には,少数の仮綴じ版,多数の上院版と下院版の三つ.市販版として,ニューヨークのアップルトン(Appleton)社から出された,一巻ものが二つの版(1856, 624 pages & 1857~9, 514 pages)あるようだ.但し,市販版は版が小さく(オクタボ 18.5 x 26 cm),全頁大の挿絵が少数(9枚)で単色鋼板画である点が,議会版がフォリオサイズ(23+/-cm x 29 cm)で,全頁大の挿絵(90枚以上)の多くが色刷り石版であることと大きく異なる.
議会版の印刷部数だが,一部20ドルの印刷の全費用が$360,000であったことから,18,000 sets と考えるのが妥当だろうと考えられる.各院からそれぞれ500 部,合計1,000 部がペリーに贈呈されたほか,議員には50部ずつが配布されたが,どうも殆どが直ぐに本屋に直行したらしく,これを批判する声が上がったと記されている(『航海記』出版と同年の1856年の Putnam's Monthly Magazine,左下図)
資料ペルリ提督『日本遠征記』土屋喬雄・玉城肇訳 岩波文庫 (1948)
「この記録は合衆国の約三十三議会第二開期中に特殊刊行物第九十七として、一八五六年春に印刷にとりかゝり、合衆国印刷局に於て数十冊を紙表紙仮綴四巻として出版したが、その後、ワシントンの一印刷業者によって刊行されることになった。結局元老院 Senata 版と衆議院 House of Representative 版との二種があり、前者には更に水路図を別冊とする四冊本と、これを別冊とせず、第二巻に合綴した三冊本との二種あり、後者は殆んどすべて三冊本であると云ふ結論に達した。」
『伝記ペリー提督の日本開国』サミュエル・エリオット・モリソン著 座本勝之訳 双葉社 (2000)
原著:Samuel Eliot Morison著 "Old Bruin": Commodore Matthew C. Perry, 1794-1858 (1967)
「政府の刊行物であるこの『遠征記』は一般の市販ルートでは発刊されないため、1856年、ペリーはその『第1巻』だけをニューヨークのアップルトン社からも発刊することにした。この市販の『遠征記』は、政府の公式記録と比べ、多くの石版画が削除されていたが、熱狂的な評判を呼んだ。
このような背景の中で、議会は後に40万ドルの予算を計上し、全3巻、3万4000部が印刷された。そのうちの半数以上が議員と政府高官に贈られ、残りの2000部が海軍省、1000部がペリーのものとなった。ペリーはこの中の半数を、ホークス師と『遠征記』の寄稿者たちに贈呈している。」
『ペリー提督『日本遠征記』ともうひとつの遠征記録』 山下 洋一 金沢大学附属図書館報 (2003)
「当時の議会上院の印刷所として,Beverley Tucker,下院にはA.O.P. Nicholson があり,刊行部数は,上院が5000 部の印刷(後に海軍用として500 部追加が認められている。),下院が10500 部の印刷が承認され,各院からそれぞれ500 部,合計1000 部がペリーに贈呈されています。(*計 16,000 部)」
『ペリー提督が見た日本』 海上自衛隊 元幹部学校長 田村 力 (2008)
「議会版3巻本が34000部、ニューヨークのアップルトン(Appleton)社からも第1巻の簡略版が出版された。」
Baxley Books ~~ Bibliography
"Putnam's Monthly Magazine" (Volume VIII, Issue 44, page 218, American Literature and Reprints: Commodore Perry's Japan pp. 217-218, 1856)
An 1856 article asserted that 18,000 sets were produced at a cost of $20.00 each. The article also alleged that each Congressman was allocated 50 copies and most of them were sold to booksellers. Obviously, the lavish Narrative was not free of criticism. It can be confirmed that the House of Representatives passed a resolution ordering 10,000 copies be produced with and additional 500 for presentation to Commodore Perry. (左図)